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『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」…』からの引用(抜き書き)読書ノート

引用(抜き書き)「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』の読書ノート作成者:masudakotaro さん

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【第4章】
(2000年には)少年事件が凶悪化・多発化しているとの前提のもと,刑事罰対象年齢の16歳以上を14歳以上に引き下げるなど,少年法が厳罰強化の方向に改正された。

この国の殺人事件数は1995年をピークにして,地下鉄サリン事件以降はほぼ毎年のように戦後最少を更新している。人口比にすればピーク時のほぼ四分の一だ。少年による殺人事件についても,ピークは1961年の年間448件で,やはり現在はほぼ四分の一にまで減少している。十代の犯罪発生の比率を諸外国と比較しても,日本はフランスやイギリス,ドイツや韓国などのほぼ半分から三分の一で,世界で最も少年が犯罪を起こさない国と言っても過言ではない状況を呈している。

袴田事件の犯人とされた袴田巌や名張ぶどう酒事件の犯人とされた奥西勝は,今も確定死刑囚として拘置所に拘留され続けている。袴田は今年77歳で奥西は86歳。いずれも無実を訴え続けながら,その生涯の半分以上を拘置所で死刑囚として過ごしている。本来なら死刑判決確定後から六ヶ月以内に執行しなくてはならない。これほど長期にわたって死刑が執行されない理由については,法務省は二人が老衰で死ぬことを待っているからだとの説もある。つまり処刑して問題視されることを避けているわけだ。

容疑者は裁判で罪が確定するまでは無罪(が推定される人)として扱われる。

裁判において検察は被告人の有罪を完全に立証しなければならず,もしも被告人や弁護人の反論が十分でなくとも,検察の立証が不完全なら無罪にすべきである。

国民の理解を深めることを理念にするのなら,なぜ裁判員に守秘義務を与えるのだろう?しかもこれも破れば罰則だ。自分の体験や悩みを,家族にすら話したくても話せない。これでは理解を深めるどころか広がりすらしない。

アメリカの陪審員制度では,陪審員が無罪評決を出したとき,検察官は控訴できないことになっている。ところが裁判員制度の場合,裁判員が導入されるのは一審のみで,もしそこで検察の求刑を大幅に下回るような判決が出た場合,検察が控訴する可能性はきわめて高い。ところが高裁や最高裁では,裁判員制度は採用されない。ならば結局は,市民感覚など反映されないということになりかねない。

アメリカは州によって死刑存置と廃止が入り混じっているが,被告人には陪審員による裁判を希望するかどうかの選択権が与えられているし,陪審員が決めるのは基本的には有罪か無罪かの判断だけで,量刑はプロの裁判官が決めている。

でも裁判員制度は,市民感覚を裁判に反映させるとか市民に刑事裁判を理解してもらうためなどの美辞麗句を身にまといながら,結局はプロの領域の判断を市民に押し付けるシステムだ。

なぜ一審だけで裁判が打ち切られたかといえば,麻原の精神状態が普通ではなくなったからだ。(中略)精神状態を普通に戻してから裁判を続けましょう。二審弁護団のその主張は,結局のところまったく認められなかった。

結果としては麻原を早く吊るせとする圧倒的な民意に,この国の司法とメディアは(組織として)従属した。

刑事訴訟法479条は,「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは,法務大臣の命令によって執行を停止する」とある。まさしく麻原はその状態にあると僕は推測する。

適正手続をサボタージュするべきではない。方と正義の番人であるならば法に従ってほしいし,民意の圧力に屈して不正義を看過しないでほしい。

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