作成者:tsuzuki670 さん
『夜と霧 新版』の読書ノート2015/02/26 作成
強制収容所での経験を心理学的に記述した著作。収容段階、収容所生活、解放段階の3つに分かれている。
理屈で応えたくはない。僕自身の最期をここに感じながら応えたい。大いなる問いに向き合おうとする、この状態から抜けだすことは容易だ。しかし少なくともいまの僕はそれを望んではいない。
この著作の眼目は、第2章の後半、生についてより一般化された事実を論じる箇所だろう。109ページ以降。このような極限状態にあっても、人間は「どのような人間であるか」を決定する内面的自由を保持している。そしてその自由を積極的に行使することこそが人間の価値であり、生きることの意味だと。
未来をもつこと。目的をもつこと。120ページ。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐えうる」(p128)特定の目的に生を還元することは、平時にも妥当だろうか?「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(p134)
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(p129)「この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する」という表現をみると、これは岡本太郎的な「生に対する刻一刻の跳躍」を意味するのだろうか。
仏教の八苦の思想に通ずるものがあるだろうか?キリスト教の受苦とは?キリストが引き受けたものであり、一般的な信徒に課されたものではない?
「わたしたちのひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、と私は語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいほしいと願っているのだ、と。」(p139)このとき人は「眼差す」側ではなく「眼差される」側として存在するということ。そして「死に目覚める」とは何か。
僕もやがて老いるだろう。そして死に近づくだろう。そこにあるのは必ず、苦しみだ。直接の肉体的な苦痛はなかったとしても、不自由による苦痛、喪失による苦痛からは逃れえない。そのときフランクルの言葉はどのような意味をもつか。
とても厳しい、とてもとてもとてもとても厳しい考えだ。アウシュビッツにおいて、「尊厳を維持せよ」と語ること、それは激励であるよりも叱咤に聴こえる。例えばこのような記述。「現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ『目的なんてない』からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。」(p121)
「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と」(p144)これも厳しい考え方だ。もちろん、あれだけの環境を生き抜いた人間が厳しい考え方を抱かない方がおかしいのだとも言えようが。
愛の話。61ページ、妻を想い、愛こそが人間の達する最高の境地だということ。そこには相手からの見返りが必要ないどころか、相手の実体的な存在すら不要だということ。
自然、その美の救い。66ページ。「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
真摯に受け止めたいし、真摯に受け止めたいからこそ、その主張に感じる「理解不能な部分」を審らかにしておきたい。
宗教的な記述が少ないことに驚く。それは彼が科学者としてこの文章をものしたからか。「ユダヤ」という言葉を使わなかった理由と同様、これを特定の民族・宗教的受難者の経験の記述に留めたくなかったからか。
栄養失調者腹部が膨張するのはタンパク質の不足によるもので、この現象は飢餓浮腫と呼ばれる。
フランクルの他の著作にも触れてみるといいかもしれない。
旧訳者と新訳者の両名によるあとがきも、この著作をめぐる物語を感じさせるものだった。
理屈で応えたくはない。僕自身の最期をここに感じながら応えたい。大いなる問いに向き合おうとする、この状態から抜けだすことは容易だ。しかし少なくともいまの僕はそれを望んではいない。
この著作の眼目は、第2章の後半、生についてより一般化された事実を論じる箇所だろう。109ページ以降。このような極限状態にあっても、人間は「どのような人間であるか」を決定する内面的自由を保持している。そしてその自由を積極的に行使することこそが人間の価値であり、生きることの意味だと。
未来をもつこと。目的をもつこと。120ページ。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐えうる」(p128)特定の目的に生を還元することは、平時にも妥当だろうか?「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(p134)
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(p129)「この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する」という表現をみると、これは岡本太郎的な「生に対する刻一刻の跳躍」を意味するのだろうか。
仏教の八苦の思想に通ずるものがあるだろうか?キリスト教の受苦とは?キリストが引き受けたものであり、一般的な信徒に課されたものではない?
「わたしたちのひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、と私は語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいほしいと願っているのだ、と。」(p139)このとき人は「眼差す」側ではなく「眼差される」側として存在するということ。そして「死に目覚める」とは何か。
僕もやがて老いるだろう。そして死に近づくだろう。そこにあるのは必ず、苦しみだ。直接の肉体的な苦痛はなかったとしても、不自由による苦痛、喪失による苦痛からは逃れえない。そのときフランクルの言葉はどのような意味をもつか。
とても厳しい、とてもとてもとてもとても厳しい考えだ。アウシュビッツにおいて、「尊厳を維持せよ」と語ること、それは激励であるよりも叱咤に聴こえる。例えばこのような記述。「現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ『目的なんてない』からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。」(p121)
「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と」(p144)これも厳しい考え方だ。もちろん、あれだけの環境を生き抜いた人間が厳しい考え方を抱かない方がおかしいのだとも言えようが。
愛の話。61ページ、妻を想い、愛こそが人間の達する最高の境地だということ。そこには相手からの見返りが必要ないどころか、相手の実体的な存在すら不要だということ。
自然、その美の救い。66ページ。「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
真摯に受け止めたいし、真摯に受け止めたいからこそ、その主張に感じる「理解不能な部分」を審らかにしておきたい。
宗教的な記述が少ないことに驚く。それは彼が科学者としてこの文章をものしたからか。「ユダヤ」という言葉を使わなかった理由と同様、これを特定の民族・宗教的受難者の経験の記述に留めたくなかったからか。
栄養失調者腹部が膨張するのはタンパク質の不足によるもので、この現象は飢餓浮腫と呼ばれる。
フランクルの他の著作にも触れてみるといいかもしれない。
旧訳者と新訳者の両名によるあとがきも、この著作をめぐる物語を感じさせるものだった。
tsuzuki670 さん
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