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『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」…』からの引用(抜き書き)読書ノート

引用(抜き書き)「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』の読書ノート作成者:masudakotaro さん

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【第1章】
でもこの二つ(被害者の人権と加害者の人権)は、けっして対立する概念ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。

人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「矯正の余地はない」などのフレーズが常套句になっているけれど、なぜ裁判官にこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。

「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と断言する人たちに、僕はこの質問をしてみたい。もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなって良いのですか。

ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。

親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。

命の価値が、被害者の立場や環境によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。

被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。

遺族の気持ちを想うことと恨みや憎悪を共用することは、絶対に同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。被害者遺族の抱く深い悲しみや絶望、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無、これを非当事者がリアルに共有することなどできない。恨みや憎悪などの応報感情だけを共有しながら、一体化したかのような錯覚に陥っているだけだ。

無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。弱腰と呼びたいのなら呼ぶがよい。でもこれだけは絶対に譲らない。私たちは自国と他国の人たちの命を何よりも大事にする。

マルティン・ニーメラーが戦後に書いた詩。
最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。
なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。
次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は抗議の声をあげなかった、
なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員を攻撃したときも、
私は抗議の声をあげなかった、
なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、
やはり私は抗議の声をあげなかった、
なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、彼らが私の目の前に来たとき、
私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。
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