『翻訳がつくる日本語―ヒロインは「女ことば」を話し続ける』の読書ノートリスト
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- 【9】 住んでいる国や年齢に関係なく,労働者階級の親しげなアジア人女性のことばは,女ことばに訳される。中流階級の白人女性の専売特許だった女ことばが,黒人やアジア女性の翻訳に使われるようになった。その中には,お上品な中流女性だけでなく,たくましく生きる労働者の女性たちも含まれているのである。 「私,の,よ,わ」が,たくましく,主張し,攻撃する女性に使われているのと並行して,より典型的な女ことばである「かしら」や「わたくし」は,年配女性の言語資源として利用されている。 メディアはどういうわけか,年配女性が使う「わたくし」を強調することが多い。 確かに,日本では「乱暴な言葉で攻撃すると興奮していると思われる」とか,女性が乱暴なことばを使うと,言っている内容以前に「女らしくない,下品だ」とみなされる風潮がある。だから,女性の多くは,電車の中で痴漢に遭っても,「やめてください」と頼むしかないのだ。本当は,「さわんじゃねーよ!何やってんだよ!」とでも怒鳴りたいのだが,どんなに正当な抗議でも,女性が乱暴なことばを使うと,一挙に車内の同情を失う恐れがあることを知っているからである。そう考えると,発言内容が攻撃的であればあるほど,女性の言葉づかいはていねいになるという説明は納得がいく。 【10】 どうやら「エイリアン」の字幕は,単調なセリフであるにもかかわらず,あるいは,単調なセリフにメリハリをつけようとしたためか,女性には女ことばを,黒人男性には男ことばを機械的にあてがう傾向が強いのである。 【11】 なぜ,1970年代の翻訳家たちは,強い女の発言を機械的に女ことばに翻訳したのだろうか。その理由のひとつは,「女は女ことばを話している」という信念だと考えられる。なぜならば,女ことばが従来表現していた従順でていねいな女らしさと,それとは正反対の戦い,闘い,主張するヒロインに唯一共通するのは,「女である」という事実だけだからだ。 2000年代の翻訳では,話し手の感動や興奮,自信ややる気が,男ことばを使うひとつの要因になったのだ。 広告のようなフィクションでも,具体的な場面でも,日本女性は100年以上前から「ぼく,ぜ,ぞ」に象徴される男ことばを用いてきたのである。では,なぜ「女は女ことばを話している」という信念が維持されてきたのだろうか。 その理由のひとつは,翻訳が律儀に女性のせりふを女ことばに訳してきたからだ。今から考えれば,1970年代の洋画に強い女が登場した時が,「女のせりふは女言葉に翻訳する」という思い込みを変化させるチャンスだったのかもしれない。しかし,この時にも,強い女のせりふは,標準語や男ことばではなく,ほぼ機械的に女ことばに訳された。 ここには,「女は女ことばを話している」という信念に基づいた翻訳が,さらにその信念を強固にするという循環が見られる。日本人は,日本女性よりも翻訳の中の女性が女ことばを話す場面を長期にわたって目にしてきた。これらの女性は日本人ではないが女性である。逆説的だが,日本女性が実際にどのような言葉づかいをしているかにかかわりなく,翻訳大国日本の翻訳の中で非日本人女性の発言が女ことばに翻訳される限り,「日本女性は女ことばを話している」という信念も不滅なのである。 (続きを読む)
masudakotaro さん(2014/12/23 作成)