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『司馬遼太郎さんに倣って東アジアの「海道をゆく」』からの引用(抜き書き)読書ノートリスト

引用(抜き書き)『司馬遼太郎さんに倣って東アジアの「海道をゆく」』の読書ノートリスト

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  • (p240)山東半島は、韓国企業の最重要拠点…国交樹立の数年前、1990年頃から青島=チンタオを中心として韓国企業が進出し…周辺を合わせると約20万人の韓国人…いたるところにハングルが記され、どこの店に行ってもコリア語が通じる。 (p241)地勢的に隣接する北朝鮮の影響は大きかったが、中韓が国交を結んで以来、韓国文化の大量流入で一気に韓国風に変わってきている。 (p242)国立チンタオ大学…大学全体の留学生は500人そのうち韓国人は300人…今までは英語を除けば人気度ダントツの日本語もこの数年で韓国語に逆転された。 韓国語学科の定員は全学で150人。康光虎学科長によると「120%就職OKですね。一人の学生に何社からもアプローチがあり、学生の方が条件を付けるといった具合ですよ」(続きを読む
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midnightwakeuperさん
midnightwakeuper さん(2013/10/26 作成)
  • (p234)小笠原島が捕鯨船の薪水補給基地として…注目…島に移住を試みる欧米人…。最初に移住…は1830年で、米国人ナザニール・セボレー、英国人リチャード・ミリチャンプ、マテオ・マザロ等5人と彼等の妻となるハワイやポリネシアの先住民を引き連れての総勢23人で…豚などの家畜、種子とともに現在の二見港に上陸し英国旗を掲げた。  その後、仲間内で考え方の違いや仲違い、死亡などで、最後まで島に残ったのは米国人ナザニエル・セボレーとその家族だけとなった…末裔は…1946年に135人…当時の島民は約八千人…  移住の頃は小笠原は英国領として国際的認知が進んでいた。ところが…熱がさめたように…こだわりを捨て領有権は(アメリカ海軍アジア提督の)ペリーの軍政下に置かれていく。  ペリーの支配下、セポレーを長とする“ピール島=父島植民政府”が成立。ペリーは小笠原を琉球とともに日本本土を開国する前進基地と考えていたようである。 (p236)1854年…日米和親条約を締結…英国に代わって米国がアジア太平洋の覇権を握った歴史的瞬間であった。小笠原諸島の日本領帰属は、その大いなるプレゼント…(続きを読む
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    midnightwakeuperさん
    midnightwakeuper さん(2013/10/26 作成)
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