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『司馬遼太郎さんに倣って東アジアの「海道をゆく」』からの引用(抜き書き)読書ノート

引用(抜き書き)司馬遼太郎さんに倣って東アジアの「海道をゆく」』の読書ノート作成者:midnightwakeuper さん

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(p234)小笠原島が捕鯨船の薪水補給基地として…注目…島に移住を試みる欧米人…。最初に移住…は1830年で、米国人ナザニール・セボレー、英国人リチャード・ミリチャンプ、マテオ・マザロ等5人と彼等の妻となるハワイやポリネシアの先住民を引き連れての総勢23人で…豚などの家畜、種子とともに現在の二見港に上陸し英国旗を掲げた。
 その後、仲間内で考え方の違いや仲違い、死亡などで、最後まで島に残ったのは米国人ナザニエル・セボレーとその家族だけとなった…末裔は…1946年に135人…当時の島民は約八千人…
 移住の頃は小笠原は英国領として国際的認知が進んでいた。ところが…熱がさめたように…こだわりを捨て領有権は(アメリカ海軍アジア提督の)ペリーの軍政下に置かれていく。
 ペリーの支配下、セポレーを長とする“ピール島=父島植民政府”が成立。ペリーは小笠原を琉球とともに日本本土を開国する前進基地と考えていたようである。
(p236)1854年…日米和親条約を締結…英国に代わって米国がアジア太平洋の覇権を握った歴史的瞬間であった。小笠原諸島の日本領帰属は、その大いなるプレゼント…
MEMO:
朝日新聞記者らしく(殴り書きで早く書くからか)下手な文章だ。原文のままだが「開国する」ではなくふつうは「開国させる」だろう。それにしても、小笠原諸島があやうく英国または米国の領土となるところだったのに両国の綱引きの結果として、また“米国の好意”によって日本領有が維持されたとは。23人が移住してきた当時は無人島でもなかっただろうにまさに『軒を貸して母屋を盗られる』ところだった。
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