サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)』の読書ノート作成者:masudakotaro さん
『2013/08/10 作成
【第九講 私の中の悪魔】
自分の行動の本当の原因に,アクセスできないことがある。
そこでその結果,自分の行動を誤って偽の原因に帰することがある。
人の言動の原因について,当人よりも第三者の判断に特権を与えるということを,私たちは結構している。つまり,私たちの社会の仕組みは案外そうなっている。
一般に過失致死の場合は,意図を持っておこなわれた殺人の場合よりも,加害者に課せられる罪は,ずっと軽い。
「故意」であるということは,逸脱行為の罪を重くする。
「故意」という判定の前提には,意図の自覚ということがあるように思われる。意図の,本人による自覚。
本人の主張する理由としばしば食い違う「本当の」理由が,そもそも存在すると信じる根拠は何なのか。また逆に,本当の理由が本当に「本当」であると信じる根拠は何なのか。
「本当の理由」の存在を信じる私たちの素朴な信念が,「直接経験」への信頼というもうひとつの素朴な信念と首尾一貫していないという事実。
「自らの心的経験や行動の理由などについては,人はそれを直接的に知る特権を常に持っている」という信念。
他我問題:人が泣いているのを見て,どうして(自分が悲しいのと同じ意味で)悲しいとわかるのか。他人が近くしている赤信号の色は,本当に自分の知覚している赤色と同じか,あるいは同じだといかにして知り得るのか。
「自分がいま経験している赤い色や鋭い歯痛の感覚は,直接的で疑問の余地がない。しかし他人の経験している赤い色や痛みについての知識は別で,間接的であり,あてにはできない。
直接経験の「最終性」:「歯が痛い」というとき,少なくとも当人にとっては痛いから端的に痛いのであって,その真偽をさらに遡って問うたり,またそのために他のより直接的なデータに訴えたりすることはできない。
私たちの知覚や判断や行動は,それ自体私たち自身によって直接経験されるものであり,その明白さは真偽を問う余地さえない。しかし反面,その直接経験が何に由来し,起因したかを検討する必要が生じた場合,私たちは本人の申し立てを認めず,むしろ第三者の特権を認めるのだ。
直接経験そのものについては本人の特権を認めつつ,その前後の因果関係については第三者の特権を認めるという複雑な操作が,暗々裡に人々の常識となり,社会規範の根底を成すに至ったのは,どのような事情によるのか。
私たちは一見,自己の経験の自覚的直接性を疑うことなく生きているように見える。
しかし反面,知覚や判断や行動の由来・理由・動機・原因などを最終的に特定化する必要が生じたときには,私たちは第三者の観察にむしろ特権を与える。
その場合「責任」は,本人の自覚化された意図と第三者による因果関係との間で重みづけ,ないしは斟酌される。
これは私たちの日常の行動様式を規定するだけではなく,社会規範をも陰に陽に裏づけている,信憑の体系である。また,同時代人によって共有されるが,時代にともなってグローバルには変化する人間像の体系という意味で「時代の人間観」とも呼べる。
そこでこの「時代の人間観」をより深く理解するために,私たちはその人間観の本質的な複合性を自覚し,その依ってきたる所以と根拠を洗い直してみなければならない。
「自分のことは自分が一番よく知っている」,「自分は基本的には自分の思うとおりに行動できる」。そうした信念は「すみずみまで自覚化できる意図によって,ひとつに統一された自己」という,いわば共同幻想に基づくものである。
因果的行為論:なんらかの意志に基づく身体的挙動を重視。意思の内容ではなく,意思の効果が重要であると考える。意思の内容は責任論で論じればたりるとする。
目的的行為論:行為の目的性を重視。目的性,すなわち意図された内容およびそれを実現する意思=故意。因果関係による支配ではなく,因果関係を支配する行為者の主体的な介入があって,はじめて行為となり得ると考える。
自分の行動の本当の原因に,アクセスできないことがある。
そこでその結果,自分の行動を誤って偽の原因に帰することがある。
人の言動の原因について,当人よりも第三者の判断に特権を与えるということを,私たちは結構している。つまり,私たちの社会の仕組みは案外そうなっている。
一般に過失致死の場合は,意図を持っておこなわれた殺人の場合よりも,加害者に課せられる罪は,ずっと軽い。
「故意」であるということは,逸脱行為の罪を重くする。
「故意」という判定の前提には,意図の自覚ということがあるように思われる。意図の,本人による自覚。
本人の主張する理由としばしば食い違う「本当の」理由が,そもそも存在すると信じる根拠は何なのか。また逆に,本当の理由が本当に「本当」であると信じる根拠は何なのか。
「本当の理由」の存在を信じる私たちの素朴な信念が,「直接経験」への信頼というもうひとつの素朴な信念と首尾一貫していないという事実。
「自らの心的経験や行動の理由などについては,人はそれを直接的に知る特権を常に持っている」という信念。
他我問題:人が泣いているのを見て,どうして(自分が悲しいのと同じ意味で)悲しいとわかるのか。他人が近くしている赤信号の色は,本当に自分の知覚している赤色と同じか,あるいは同じだといかにして知り得るのか。
「自分がいま経験している赤い色や鋭い歯痛の感覚は,直接的で疑問の余地がない。しかし他人の経験している赤い色や痛みについての知識は別で,間接的であり,あてにはできない。
直接経験の「最終性」:「歯が痛い」というとき,少なくとも当人にとっては痛いから端的に痛いのであって,その真偽をさらに遡って問うたり,またそのために他のより直接的なデータに訴えたりすることはできない。
私たちの知覚や判断や行動は,それ自体私たち自身によって直接経験されるものであり,その明白さは真偽を問う余地さえない。しかし反面,その直接経験が何に由来し,起因したかを検討する必要が生じた場合,私たちは本人の申し立てを認めず,むしろ第三者の特権を認めるのだ。
直接経験そのものについては本人の特権を認めつつ,その前後の因果関係については第三者の特権を認めるという複雑な操作が,暗々裡に人々の常識となり,社会規範の根底を成すに至ったのは,どのような事情によるのか。
私たちは一見,自己の経験の自覚的直接性を疑うことなく生きているように見える。
しかし反面,知覚や判断や行動の由来・理由・動機・原因などを最終的に特定化する必要が生じたときには,私たちは第三者の観察にむしろ特権を与える。
その場合「責任」は,本人の自覚化された意図と第三者による因果関係との間で重みづけ,ないしは斟酌される。
これは私たちの日常の行動様式を規定するだけではなく,社会規範をも陰に陽に裏づけている,信憑の体系である。また,同時代人によって共有されるが,時代にともなってグローバルには変化する人間像の体系という意味で「時代の人間観」とも呼べる。
そこでこの「時代の人間観」をより深く理解するために,私たちはその人間観の本質的な複合性を自覚し,その依ってきたる所以と根拠を洗い直してみなければならない。
「自分のことは自分が一番よく知っている」,「自分は基本的には自分の思うとおりに行動できる」。そうした信念は「すみずみまで自覚化できる意図によって,ひとつに統一された自己」という,いわば共同幻想に基づくものである。
因果的行為論:なんらかの意志に基づく身体的挙動を重視。意思の内容ではなく,意思の効果が重要であると考える。意思の内容は責任論で論じればたりるとする。
目的的行為論:行為の目的性を重視。目的性,すなわち意図された内容およびそれを実現する意思=故意。因果関係による支配ではなく,因果関係を支配する行為者の主体的な介入があって,はじめて行為となり得ると考える。
masudakotaro さん
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