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『琵琶法師―“異界”を語る人びと (岩波新書)』からの引用(抜き書き)読書ノート

引用(抜き書き)琵琶法師―“異界”を語る人びと (岩波新書)』の読書ノート作成者:sonojitu さん

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P9
耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくるノイズは、視覚の統御、意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振させてゆくことが、前近代の社会にあっては、<異界>とコンタクトする方法でもあった。
「耳なし芳一の話」を英文で再話したハーンじしん、片目に障害があったことはよく知られている。視覚の不自由なかれが、霊的な世界に関心を寄せる「耳の人」だったことは、平川祐弘
が述べている。

P10
たとえば、奄美や沖縄にはユタという女性シャーマンがいる。彼女らが神霊の使いとなるときっかけは、家庭内の不幸や近所づきあいのトラブルなどに起因する心身の変調である。心身の変調(巫病という)は、ときに精神の錯乱となるが、そんなときの相談あいては、精神科医ではなく、ひと時代まえまでは近くに住む先輩ユタだった。
心身の変調・錯乱が、「ユタになれ」という神の思し召しと判断されると、神の命令をこばむかぎり病は治らないとされる。先輩ユタに弟子入りして修行がはじまるのだが、その段階では、心身の変調や錯乱も霊能の強さとしてポジティブにうけいれられる。そして一定期間の修行をおえた者は、あの世とこの世、狂気と正気というふたつの人格の交替を統御できるシャーマンになってゆく。
巫病を成巫儀礼の階梯とするユタは、一般に晴眼者である。それにたいして、巫病を経ずに、師匠のもとでの修行だけでシャーマンになるのは、北部九州のトウニン、近畿地方のダイサン、東北地方のイタコ・オナカマなど、いずれも盲目のシャーマンである。
巫病を必須の階梯とする召命型(召命は、神に召される意)のシャーマンにたいして、巫病のプロセスを経ないシャーマンを、修行型という。修行型のシャーマンは視覚の障害者に多いのだが、視覚障害者のばあい、心身の変調・錯乱などを経験しなくても、一定の修錬によって、この世ならぬモノ(=霊)とのコンタクトが可能だったのだ。

P11
聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、自己の統一的イメージを視覚的に(つまり鏡にうつる像として)もたないという点で、自己の輪郭や主体のありようにおいて常人とは異なるだろう。それはシャーマニックな資質のもちぬしに、盲人が多いことの理由でもある。そして自己の輪郭を容易に変化させうるかれらは、前近代の社会にあっては、物語・語り物伝承の主要な担い手でもあった。
平安時代の貴族社会で行われた「つくり物語」(『源氏物語』以下のフィクションの物語をさす)はともかく、民間で語られた物語は、過去(むかし)の死者たちの語りである。モノ語りを語るとは、見えないモノのざわめきに声をあたえることであり、それは盲人のシャーマニックな職能と地つづきの行為である。そして声によって現前する世界のなかで、語り手がさまざまなペルソナ(役割としての人格・霊格)に転移してゆくのであれば、物語を語るという行為は、近代的な意味でのいわゆる「表現」などではありえない。
むしろ「表現」の前提にある「自己」が拡散し、さまざまなペルソナに転移してゆく過程として、物語を語るという行為はある。語る行為が不可避的に要求する主体の転移と複数化は、民俗学ふうにいえば一種の憑依体験だが、視覚を介さずに世界とコンタクトする盲人は、物語の伝承とパフォーマンスにおいて非凡な能力を発揮したのである。

P13
近世の語り物音楽を代表する浄瑠璃・文楽も、もとは座頭の三味線芸から出発した。
…芸能者が同時に宗教者でもあるという中世的な芸能伝承のありかたは、西日本の琵琶法師によって近代まで伝えられた。
MEMO:
「平家物語」を語る盲目の僧・芳一で有名な琵琶法師。
この印象的な霊的挿話が惹起するイメージと、琵琶法師の実像はそれほど隔たりのあるものではなかったことが、この本ではわかる。

芸能と霊性は渾然一体となって古代より受け継がれてきた。
その特殊な使命を担うひとびとへの興味がつきない。
そんな欲求にディープに応えてくれるこの本の存在がありがたい。
付録の俊徳丸を語る琵琶法師のDVDもすばらしい。
さん
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