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『なぜ書くか: エリザベス・ボウエン/グレアム・グリー…』からの引用(抜き書き)読書ノートリスト

引用(抜き書き)『なぜ書くか: エリザベス・ボウエン/グレアム・グリーン/V・S・プリチェットの往復書簡集』の読書ノートリスト

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  • 作家も他の人と同じように一個の市民(生きる存在)であり、市民としてのディレンマをもっている。しかしプリチェットにおいては作家の市民としての時間は彼の作家としての時間に比べればほんのわずかでしかなく、市民であることは人間の全目的ではない。さらに、作家はたとえ社会にとって不可欠の存在であるにしても、一個の贅沢品にしかすぎないという自覚が彼にはあって、もし社会から攻撃を受ければ、作家はレジスタンスのゲリラ兵のように戦いつづけ、逃亡するほかにということになる。 P82(続きを読む
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haruga6さん
haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • 社会にとって不可欠の存在であっても作家を一個の贅沢品として規定し、社会の攻撃から逃亡し続けることによって作家の生命を保持しようとする姿勢がプリチェットにて顕著であるのに反して、生まれながらに孤独で気むずかしくて、社会との正常な関係をはじめから持たないボウエンにとっては、プリチェットのように積極的に社会から逃れる必要はない。彼女はプリチェットが意識的に志向しようとしているものを、いわば自然にそなえているのだ。~ ~プリチェットは自己の中に社会を侵入させないことによって作家的存在を成立せしめようとしているのであり、ボウエンでは自己が社会から切り離されているという条件を必須のものとしてのみ作家的存在は成立するのである。両者にはそういうヴェクトルの相違はある。だが生きる自己が社会との関係を失っていること、あるいは失うことが書く自己を成立させるという点では両者は結局同じ立場をとっていることになる。 P83-84(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • 私は疎外された人たちの意識的な弁護を薦めているのではない。事実私はプロパガンダを少しも弁護していない。ディケンズやチャールズ・フッドにとって書かれたような弁護をしているのではない。小説家にとって再創造の行為自体は、共感を巻き込む。彼自身が共感できない人物たちは、真に再創造されていないのだ。プロパガンダは無垢なる人たちへの、もしくはプロパガンダが無垢とみなしたがる人たちから共感を引き出すことだけに関心を持つ。そして彼がこれをなすのは、罪ある人を犠牲にして行う。彼もまた泉に毒を注いでいるのだ。しかし、小説家の仕事は、いかなる人間にも自分自身の似姿を引き写すことである。無垢なる人と同様に、罪ある人の場合をも。全ての人物に対する私たちの態度は多かれ少なかれ――ほらそこに私自身が行く、神よ許したまえ、である。 p66(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • ここで私は挿話的に、「不忠節」(disloyalty)の徳の重要性を再び強調したい。作家がこの徳を保持できさえすれば世間からの汚れを逃れるのだが、――これは純粋性よりも作家たちにとってははるかに重要なものである。名誉とか、国家の保護や、同類の作家たちの成功、称賛などはみなこの不忠節を吸い取る。彼らが教会や国に対する忠節心がなければ、彼らは逆に自分自身の創ったイデオロギーに忠実になるだろう。そして彼らは統一見解を保持していて一貫性があるといって褒められるだろう。絶望ですら忠節心の一形態になりうる p65(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • 文学は教化とは一切関係がない。こういったからといって、私は文学が無教化的であると主張しているわけではない。文学は個人の道徳を表し、この個人の道徳はその個人が属するグループの道徳とめったに一致するものではない。 P44(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • 先日、昼食の時に一人の農民に会った。彼は二人の精神異常者を雇っていた。彼らは立派な働き手であったと言う。またどれほど仕事に忠実であることか。彼らは美しき新世界の条件づけられた人間のようであった。不忠節とは私たちの特権である。しかしこの特権は社会に決して認めさせることのできない特権である。従って、罰を受けずに不忠節でありうる私たちはこの理想を生々しく持っていなければならない。 P44(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • 私の見解は――さらにあなたの見解もそうだと思うが――作家は説教壇から離れておくべきで、そこから降りておくべきで、ただ書くべきだということである。彼らは嘆願書に自分の名前を付加すること、自分たちが多くを知らない、また何も知る理由がない問題に関して新聞に投書すべきではない。そういたいと思う誘惑は不当なほどに大きくなるだろう。なぜか、明らかに、それは「自負心」への誘惑であるが、だが、大衆の側での乱れた価値や虚偽の希望のために、この誘惑がどのようにして提示されるのかということである。 P36(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • このことは、長い回り道をしてはじめの質問に私を連れ戻す――なぜ書くか、という質問に連れてくる。私は、読者、人びと、社会のためには書かない。私は自分自身のために書く。私自身の自己配慮の喜びのために書く、自分が欲する卓越性を目指しながら、しかもそれにいつも至ることなく書いている。もしも誰かが私の書くものを読むことがなければ私は書くだろうか。多分そうではあるまい。しかし、私は自分の頭のなかでは書くことはやめることはできないだろう。 P24(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
  • イギリス人が偽善的であるのは自然である。イギリスの風土が強い酒を要求するのと同じように、偽善の不鮮明さと刺激を要求するのである。 P17(続きを読む
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    haruga6さん
    haruga6 さん(2013/03/31 作成)
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