『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』の読書ノートリスト
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- 【第3章】 ベトナム戦争当時の人たちは、一秒の何百分の一という瞬間が定着した写真を見ながら、この写真が撮られる前、撮られた後、あるいはフレームのそとのじょうきょうを想像した。写真とはそういうメディアなのだ。だから喚起される。前のめりになる。ベトナムの人々の辛さを想う。でもわかりやすい情報パッケージを各家庭に配信するテレビは、いつのまにかその力を失った。 表現の本質は欠落にある。つまり引き算。ミロス島で発見されたミロのビーナス像が考古学的な価値に加えて優れた芸術作品になった理由は、両腕が欠損しているからだ。 容疑者が逮捕されたとき,その手錠には必ずモザイク処理が施される。できれば外したい。そう思った現役時代,局の報道部デスクにモザイクの理由を訊ねたことがある。彼は言った。 「人権への配慮だ」 「つまり,まだ容疑者だからですか」 「そういうことだ」 「ならば手錠にモザイクをかける前に,顔や名前を晒すべきではないのでは?」 澤田教一が撮った「安全への逃避」。(中略)写真には場所や日時は記されていない。母親と四人の子どもたちが何から逃げようとしているのか,どこへ向かって逃げようとしているのかもわからない。だから写真を観る側は想像する。思う。考える。この写真が撮られる前,いったいどんな事態が母と子どもたちを襲ったのか。そしてこの写真が撮られた後,彼らはどんな運命を辿ったのか。 時間と空間が限定されている。つまり最初から欠落している。だから観る側は写真を凝視する。凝視しながら思う。想像する。考える。状況だけではない。思うという行為は,観る側の意識を内発的に刺激する。 ところが情報量が写真に比べれば圧倒的に大きいビデオやフィルムなどの動画は,観る側の意識を刺激しない。思うことや考えることを触発しない。なぜなら欠損していないからだ。思う前に説明するからだ。 (ビデオ営巣は)写真に比べれば情報量は圧倒的に多い。だからこそ観る側は思わない。考えない。想像しない。 (続きを読む)
masudakotaro さん(2014/06/21 作成)