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『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」…』からの引用(抜き書き)読書ノートリスト

引用(抜き書き)『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』の読書ノートリスト

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  • 【第5章】 だいたいネクタイって変だ。首を巻く細長い布。実用性は何もない。防寒にも役立たない。人類が滅んだあとに地球にやってきた異星人は,大量に発見されるこの奇妙な布切れの用途について首を傾けるだろう。まさか首に巻いていたなどとはなかなか発想できないに違いない。だって意味がないからだ。 明治以降,日本が他国と結んだ同盟は,日英同盟と日独伊三国同盟くらいのはずだ。なぜなら同盟とは,「国家目標を達成するために二つ以上の国が軍事上の義務を伴った条約に基づいて提携すること」を意味する。つまり集団的自衛権が前提になる。 建前としては,日本に軍隊は存在していない。だから他国との(軍事)同盟など,論理的にはありえない。 捕虜となった彼らのほとんどは兵士ではない。村を略奪したときに捕まえた農民たちだ。だから女もいる。特に若い女性の場合は,まずは大隊長や中隊長の「慰安婦」とされ,さらにいくつかの中退に分配されて複数の兵士たちの相手をつとめ,最後には殺される。さんざんにもてあそんだ十代後半の少女を殺害してから,その大腿部をスライスして油で炒めて食べた部隊もあったという。まさしく中国の農民たちにとっては,比喩ではなく野獣の軍隊だ。 軍人らしい軍人を作るという大義名分のもとに,古年兵による初年兵への私的制裁は当たり前のように行われました。「君」とか「あなた」などの言葉を使っただけでも殴られる。足腰が立たなくなるほどに蹴られる。捕虜を銃剣で突き殺さねば自分が半殺しにされる。こうして初年兵たちは,普通なら持ち合わせているはずの感情や良識や人間性を,暴力によって根こそぎ奪われ,ただ上官の命令に反射的に服従し,命令さえあれば平気で人間を虐殺する機械に変わっていきました。だからこそ日本の軍隊は捕虜や一般市民に対して,これほどに残酷な犯罪行為を,ためらいなく行うことができたのでしょう。 人工衛星の打ち上げをミサイル発射だとアナウンスするならば,それは乱暴すぎると言わねばならない。向こうが無茶苦茶だからこちらも無茶苦茶でよいとは思わない。街場の喧嘩ではないのだ。筋は通すべきだ。どうしても「事実上はミサイルなのだ」と断言したいのなら,その理由と根拠を明示すべきだ。 でもこのままの形で風化すべきではない。なぜなら彼らがサリンを撒いた(不特定多数を殺傷しようとした)理由を,この社会はまだ解明できていない。つまり動機がわからない。しかも解明できていないとの意識を,ほとんどの人は持っていない。彼らが凶暴で凶悪だからとか,麻原からマインドコントロールされていたからなどの浅いレトリックによって,何となく納得したような気分になっている。 確かに実行犯たちが「麻原から指示を受けたからサリンを撒いた」ことは明らかだ。でもならばなぜ,麻原がそのような指示を下したのか。何を狙い何を目的にしていたのか,その理由や背景がわからない。わからないのに裁判は一審のみで終了した。早く麻原を処刑せよとの声に,司法とメディアが従属した。 麻原法廷を典型に,やるべきことの多くをこの社会はやっていない。それでは教訓どころか副作用しか残らない。こんなふうに引きずり続けるのなら,跡形もなく風化して一切を生奥から消してしまったほうがよほどいい。風化の仕方を間違えている。 こうした反体制的な作品がハリウッドの娯楽映画として当たり前のように制作されることに,アメリカの凄みと本質がある。短絡的で手前勝手で自己陶酔的などうしようもない国だけど,復元力は確かにある。それを支えるのは徹底した情報公開と,権力を監視するジャーナリズムへの国民の信頼だ。 イラク戦争終結後,アメリカを支持した国の多くも過ちを認め,イギリスのブレア政権やオーストラリアのハワード政権は国民の支持を失い,ブレアに至っては退陣してから3年後の2011年に,イラク戦争に関する独立調査委員会の公聴会で証人喚問されて,自らの判断の過ちを認めている。つまり国レベルで過ちを,しっかりと検証しようとしている。どのように風化すべきかを考えている。 でも日本では,そんな動きはまったくない。当時の政権は言うに及ばず,アメリカ支持を主張していた識者や評論家やジャーナリスト,そして多くのメディアも,自らの過ちを自己検証するどころか認めてすらいないし,責任を追求されてもいない。 (続きを読む
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masudakotaroさん
masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
  • 【第4章】その2 ノルウェーと日本とでは,殺人事件の人口比はほぼ同じくらいと考えることができる。(中略)ただし刑事政策の方向は真逆。 「犯罪者のほとんどは,貧しい環境や愛情の不足などが原因で犯罪を起こしている。ならば彼らに与えるべきは苦しみではない。良好な環境と愛情,そして正しい教育だ」 「もちろん,少数ではあるが,とても邪悪な魂を持ってしまった犯罪者もいる。つまりサイコパスです。でもならば,彼らに罰を与えても意味はない。この場合は治療しなければならない」 ノルウェーには死刑も終身刑も無期懲役もない。刑罰の最高刑は禁固21年。どんなに凶悪な事件の加害者だとしても,これ以上は求刑されない。ただし出所の際には,住まいと仕事があることが条件になる。この二つが決まっていなければ出所できない。でも長期受刑者の場合,住まいや仕事は失っていて当たり前だ。ならばどうするか。その場合には国が,住まいと仕事を斡旋する。だから再犯率はとても低い。 「最高で21年の刑期を終えて着の身着のままでいきなり世の中に放り出されても,また結局は犯罪に走る可能性が高い。それでは彼や彼女の処遇のための費用も含めて,国家にとっては大きな損失です。大切なことは彼や彼女に罰を与えることではなく,社会の一員として再び迎え入れることです。国民はそれをわかっています。不満などまったくありません」 東海テレビ放送の情報番組「ぴーかんテレビ」が起こした「怪しいお米セシウムさん」騒動だ。(中略)この番組を見て「そうか。岩手山のお米はセシウムさんなのか」とか「怪しいお米なのか」と思う人が,実際にどれくらいいると考えているのだろうか。 岩手の農業関係者たちが怒るのはまだわかる。でも大きな声をあげて怒っている人たちの多くは,被災者でもないし農業関係者でもない。 もう一度念を押すけれど,東海テレビのこの番組は確かにお粗末だ。関係者は猛省すべきだし,心から謝罪もすべきだ。でもそもそもはCG担当者の悪戯心だ。オンエア直後には取り返しのつかない事態に,担当者やスタッフたちは放心状態だったはずだ。決して岩手のお米の評判を地に落としてやろうとか,被災者たちをさらにひどい目にあわせてやろうなどと計画したわけではない。責められるべきではあるけれど,これほどに血相を変えて批判され,糾弾され,罵倒されることだろうか。あまりに一罰百戒がすぎる。 もしも連合赤軍事件がオウム後に起きていたら,彼ら革命兵士の多くは,当然のこととして死刑が無期懲役の判決を受けていたはずだ。結局のところ,連合赤軍事件で処刑された人は一人もいない。現状においてオウムの死刑確定囚は13人で無期懲役は5人。厳罰化はこれほどに進んでいる。その帰結としてこの社会は,学んだり考えたりする機会を失い続けている。 ちなみにヨーロッパの多くの国で指名手配犯のポスターは,原則的には存在しない。なぜなら無罪推定原則に抵触するからだ。 一審有罪率が99.9%を超える日本では(世界レベルの平均は80〜90%くらい),「検察官が有罪を証明しないかぎり被告人は無罪として扱われる」とされる無罪推定原則が,ほとんどなし崩し的に無効化されている。容疑段階で名前や顔写真を公表することは,刑事訴訟法336条や国際人権規約に定植することは明らかなのだけど,そんな指摘もほとんどない。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
  • 【第4章】 (2000年には)少年事件が凶悪化・多発化しているとの前提のもと,刑事罰対象年齢の16歳以上を14歳以上に引き下げるなど,少年法が厳罰強化の方向に改正された。 この国の殺人事件数は1995年をピークにして,地下鉄サリン事件以降はほぼ毎年のように戦後最少を更新している。人口比にすればピーク時のほぼ四分の一だ。少年による殺人事件についても,ピークは1961年の年間448件で,やはり現在はほぼ四分の一にまで減少している。十代の犯罪発生の比率を諸外国と比較しても,日本はフランスやイギリス,ドイツや韓国などのほぼ半分から三分の一で,世界で最も少年が犯罪を起こさない国と言っても過言ではない状況を呈している。 袴田事件の犯人とされた袴田巌や名張ぶどう酒事件の犯人とされた奥西勝は,今も確定死刑囚として拘置所に拘留され続けている。袴田は今年77歳で奥西は86歳。いずれも無実を訴え続けながら,その生涯の半分以上を拘置所で死刑囚として過ごしている。本来なら死刑判決確定後から六ヶ月以内に執行しなくてはならない。これほど長期にわたって死刑が執行されない理由については,法務省は二人が老衰で死ぬことを待っているからだとの説もある。つまり処刑して問題視されることを避けているわけだ。 容疑者は裁判で罪が確定するまでは無罪(が推定される人)として扱われる。 裁判において検察は被告人の有罪を完全に立証しなければならず,もしも被告人や弁護人の反論が十分でなくとも,検察の立証が不完全なら無罪にすべきである。 国民の理解を深めることを理念にするのなら,なぜ裁判員に守秘義務を与えるのだろう?しかもこれも破れば罰則だ。自分の体験や悩みを,家族にすら話したくても話せない。これでは理解を深めるどころか広がりすらしない。 アメリカの陪審員制度では,陪審員が無罪評決を出したとき,検察官は控訴できないことになっている。ところが裁判員制度の場合,裁判員が導入されるのは一審のみで,もしそこで検察の求刑を大幅に下回るような判決が出た場合,検察が控訴する可能性はきわめて高い。ところが高裁や最高裁では,裁判員制度は採用されない。ならば結局は,市民感覚など反映されないということになりかねない。 アメリカは州によって死刑存置と廃止が入り混じっているが,被告人には陪審員による裁判を希望するかどうかの選択権が与えられているし,陪審員が決めるのは基本的には有罪か無罪かの判断だけで,量刑はプロの裁判官が決めている。 でも裁判員制度は,市民感覚を裁判に反映させるとか市民に刑事裁判を理解してもらうためなどの美辞麗句を身にまといながら,結局はプロの領域の判断を市民に押し付けるシステムだ。 なぜ一審だけで裁判が打ち切られたかといえば,麻原の精神状態が普通ではなくなったからだ。(中略)精神状態を普通に戻してから裁判を続けましょう。二審弁護団のその主張は,結局のところまったく認められなかった。 結果としては麻原を早く吊るせとする圧倒的な民意に,この国の司法とメディアは(組織として)従属した。 刑事訴訟法479条は,「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは,法務大臣の命令によって執行を停止する」とある。まさしく麻原はその状態にあると僕は推測する。 適正手続をサボタージュするべきではない。方と正義の番人であるならば法に従ってほしいし,民意の圧力に屈して不正義を看過しないでほしい。 (続きを読む
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    masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
  • 【第3章】 ベトナム戦争当時の人たちは、一秒の何百分の一という瞬間が定着した写真を見ながら、この写真が撮られる前、撮られた後、あるいはフレームのそとのじょうきょうを想像した。写真とはそういうメディアなのだ。だから喚起される。前のめりになる。ベトナムの人々の辛さを想う。でもわかりやすい情報パッケージを各家庭に配信するテレビは、いつのまにかその力を失った。 表現の本質は欠落にある。つまり引き算。ミロス島で発見されたミロのビーナス像が考古学的な価値に加えて優れた芸術作品になった理由は、両腕が欠損しているからだ。 容疑者が逮捕されたとき,その手錠には必ずモザイク処理が施される。できれば外したい。そう思った現役時代,局の報道部デスクにモザイクの理由を訊ねたことがある。彼は言った。 「人権への配慮だ」 「つまり,まだ容疑者だからですか」 「そういうことだ」 「ならば手錠にモザイクをかける前に,顔や名前を晒すべきではないのでは?」 澤田教一が撮った「安全への逃避」。(中略)写真には場所や日時は記されていない。母親と四人の子どもたちが何から逃げようとしているのか,どこへ向かって逃げようとしているのかもわからない。だから写真を観る側は想像する。思う。考える。この写真が撮られる前,いったいどんな事態が母と子どもたちを襲ったのか。そしてこの写真が撮られた後,彼らはどんな運命を辿ったのか。 時間と空間が限定されている。つまり最初から欠落している。だから観る側は写真を凝視する。凝視しながら思う。想像する。考える。状況だけではない。思うという行為は,観る側の意識を内発的に刺激する。 ところが情報量が写真に比べれば圧倒的に大きいビデオやフィルムなどの動画は,観る側の意識を刺激しない。思うことや考えることを触発しない。なぜなら欠損していないからだ。思う前に説明するからだ。 (ビデオ営巣は)写真に比べれば情報量は圧倒的に多い。だからこそ観る側は思わない。考えない。想像しない。 (続きを読む
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    masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
  • 【第2章】 死刑判決を言い渡す裁判官たちは、せめて一度くらい処刑場に足を運び、執行を自分の目で見て確認すべきではないだろうか。実際に見なければわからないことはたくさんある。もちろん見てもわからないこともたくさんある。でもだからといって、見ないことの理由にはならない。 「ある程度の苦痛やむごたらしさはやむを得ない」と法廷で宣言するのなら、どの程度に苦痛を感じていると推量できるのか、どの程度にむごたらしいのか、それを知らなければならない。自分の目で見なければならない。 家でトンカツやステーキを食べながら、テレビに映る海岸に打ち上げられたクジラの救出劇に声援を送る。とても身勝手だ。人はそういう生きものだ。その矛盾は仕方がない。ただしその矛盾に対して、どれだけ自覚的でいられるかが重要だ。 別に個人の嗜好に異議を唱えるつもりはない。あなたら肉をたっぷり食べる。そこに水を差すつもりはない。でもならば、せめて知るべきだ。この肉のもとになった生きものたちがどのように殺されているのか。どのように解体されているのか。だって同じ命だ。それくらいは知ろう。知ったうえで味わいながら「肉は大好きだ」と言えばいい。 ライオンの側から撮られたドキュメンタリーは、生きるために彼らが行うかりを正当化する。でも獲物の側であるトムソンガゼルの側から撮られたドキュメンタリーは、ライオンを残虐で危険な存在として描写する。どちらも嘘ではない。どちらも事実だ。でも視点によって世界はくるくると変わる。 メディアはそうした視点の一つでしかない。僕たちはメディアによって事実を見せられているのではなく、事実に対しての視点を見せられているに過ぎない。でもこれに気づきながらメディアに接する人は少ない。 がんばらなければ生きてゆけない状況になった人に、がんばらなくても生きてゆける人が「がんばれ」と声をかける。そのグロテスクさに、なぜ多くの人は気づかないのだろう。なぜ臆面もなく「がんばれ」などと言えるのだろう。 ならば沈黙するべきだ。無理矢理に常套句を紡ぐ必要はない。今はまだ茫然自失の時期のはずだ。徹底して自失すればよい。黙り込めばよい。 丸腰の容疑者を特殊部隊が一方的に殺害することの意味がわからない。拘束して裁判にかけるべきとの異議が出ない理由がわからない。 東京地裁104号法廷で初めて目撃した麻原彰晃の異常な言動。どう見ても精神が崩壊しているとしか思えない彼を被告人席に座らせて、当たり前のように進行する裁判。読み上げられる判決文。その瞬間に法廷を脱兎のごとく飛び出して、「死刑です。死刑です。今、死刑判決が出ました」とカメラに向かって叫ぶテレビ局の記者たち。翌日には麻原の様子を、7反省の色なし」とか「醜い責任逃れ」などと描写したほとんどのメディア。 なぜウサマ・ビンラディンは、家族とともにいた家の中で、無抵抗のまま米軍特殊部隊に射殺されねばならなかったのだろう。 一連のアメリカの行動には抑制がまったくない。そもそもこれは戦闘行為ではない。戦争はすでに集結している。しかも他国の領土だ。もしもこれが許されるのなら、自国にとって都合の悪い人は(司法手続きなしで)殺戮することが、今後の国際ルールとなってしまう。例えば大田区の蒲田西口商店街雑踏に突然武装ヘリから降下してきた米軍特殊部隊が、タコ焼きを頬張っていた丸腰のテロリストを包囲して問答無用で射殺する。そんなことが許されるだろうか。 いずれにせよ、何がビンラディンを同時多発テロに追い込んだのか。そもそも同時多発テロは、どれほどに計画的だったのか。ビルが崩落することを、ビンラディンはどの程度まで予見していたのか。多くの犠牲者に対しては何を思うのか。再発を防ぐためには何をすべきなのか。そうした追求が何もないままに、ビンラディンをこの世から消滅させることだけを最優先する。 ビンラディンは武器を持たないまま娘の前で射殺された。麻原は精神が崩壊したまま被告人席に座らされ続けて死刑判決が確定した。悪は世界から消滅させること。それが当然の前提になっている。悪とは何か。なぜその悪は生まれたのか。今後も同じような事件が起きる可能性はないのか。そんな煩悶がまったくない。 自民党は、日本の憲法改正のための条件は諸外国に比較しても例外的に厳しすぎるとして、改憲の発議要件を国会議員の三分の二以上から過半数に緩和すべきであると主張する。でもここで例として挙げられたアメリカやフランス、イタリアやドイツが、過半数制を採用しているかといえば、それはまったく違う。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
  • 【第1章】 でもこの二つ(被害者の人権と加害者の人権)は、けっして対立する概念ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。 人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「矯正の余地はない」などのフレーズが常套句になっているけれど、なぜ裁判官にこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。 「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と断言する人たちに、僕はこの質問をしてみたい。もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなって良いのですか。 ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。 親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。 命の価値が、被害者の立場や環境によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。 被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。 遺族の気持ちを想うことと恨みや憎悪を共用することは、絶対に同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。被害者遺族の抱く深い悲しみや絶望、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無、これを非当事者がリアルに共有することなどできない。恨みや憎悪などの応報感情だけを共有しながら、一体化したかのような錯覚に陥っているだけだ。 無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。弱腰と呼びたいのなら呼ぶがよい。でもこれだけは絶対に譲らない。私たちは自国と他国の人たちの命を何よりも大事にする。 マルティン・ニーメラーが戦後に書いた詩。 最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。 なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。 次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、 私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。 彼らが労働組合員を攻撃したときも、 私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私は労働組合員ではなかったから。 やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、 やはり私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。 そして、彼らが私の目の前に来たとき、 私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2014/06/21 作成)
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