【第2章】
死刑判決を言い渡す裁判官たちは、せめて一度くらい処刑場に足を運び、執行を自分の目で見て確認すべきではないだろうか。実際に見なければわからないことはたくさんある。もちろん見てもわからないこともたくさんある。でもだからといって、見ないことの理由にはならない。
「ある程度の苦痛やむごたらしさはやむを得ない」と法廷で宣言するのなら、どの程度に苦痛を感じていると推量できるのか、どの程度にむごたらしいのか、それを知らなければならない。自分の目で見なければならない。
家でトンカツやステーキを食べながら、テレビに映る海岸に打ち上げられたクジラの救出劇に声援を送る。とても身勝手だ。人はそういう生きものだ。その矛盾は仕方がない。ただしその矛盾に対して、どれだけ自覚的でいられるかが重要だ。
別に個人の嗜好に異議を唱えるつもりはない。あなたら肉をたっぷり食べる。そこに水を差すつもりはない。でもならば、せめて知るべきだ。この肉のもとになった生きものたちがどのように殺されているのか。どのように解体されているのか。だって同じ命だ。それくらいは知ろう。知ったうえで味わいながら「肉は大好きだ」と言えばいい。
ライオンの側から撮られたドキュメンタリーは、生きるために彼らが行うかりを正当化する。でも獲物の側であるトムソンガゼルの側から撮られたドキュメンタリーは、ライオンを残虐で危険な存在として描写する。どちらも嘘ではない。どちらも事実だ。でも視点によって世界はくるくると変わる。
メディアはそうした視点の一つでしかない。僕たちはメディアによって事実を見せられているのではなく、事実に対しての視点を見せられているに過ぎない。でもこれに気づきながらメディアに接する人は少ない。
がんばらなければ生きてゆけない状況になった人に、がんばらなくても生きてゆける人が「がんばれ」と声をかける。そのグロテスクさに、なぜ多くの人は気づかないのだろう。なぜ臆面もなく「がんばれ」などと言えるのだろう。
ならば沈黙するべきだ。無理矢理に常套句を紡ぐ必要はない。今はまだ茫然自失の時期のはずだ。徹底して自失すればよい。黙り込めばよい。
丸腰の容疑者を特殊部隊が一方的に殺害することの意味がわからない。拘束して裁判にかけるべきとの異議が出ない理由がわからない。
東京地裁104号法廷で初めて目撃した麻原彰晃の異常な言動。どう見ても精神が崩壊しているとしか思えない彼を被告人席に座らせて、当たり前のように進行する裁判。読み上げられる判決文。その瞬間に法廷を脱兎のごとく飛び出して、「死刑です。死刑です。今、死刑判決が出ました」とカメラに向かって叫ぶテレビ局の記者たち。翌日には麻原の様子を、7反省の色なし」とか「醜い責任逃れ」などと描写したほとんどのメディア。
なぜウサマ・ビンラディンは、家族とともにいた家の中で、無抵抗のまま米軍特殊部隊に射殺されねばならなかったのだろう。
一連のアメリカの行動には抑制がまったくない。そもそもこれは戦闘行為ではない。戦争はすでに集結している。しかも他国の領土だ。もしもこれが許されるのなら、自国にとって都合の悪い人は(司法手続きなしで)殺戮することが、今後の国際ルールとなってしまう。例えば大田区の蒲田西口商店街雑踏に突然武装ヘリから降下してきた米軍特殊部隊が、タコ焼きを頬張っていた丸腰のテロリストを包囲して問答無用で射殺する。そんなことが許されるだろうか。
いずれにせよ、何がビンラディンを同時多発テロに追い込んだのか。そもそも同時多発テロは、どれほどに計画的だったのか。ビルが崩落することを、ビンラディンはどの程度まで予見していたのか。多くの犠牲者に対しては何を思うのか。再発を防ぐためには何をすべきなのか。そうした追求が何もないままに、ビンラディンをこの世から消滅させることだけを最優先する。
ビンラディンは武器を持たないまま娘の前で射殺された。麻原は精神が崩壊したまま被告人席に座らされ続けて死刑判決が確定した。悪は世界から消滅させること。それが当然の前提になっている。悪とは何か。なぜその悪は生まれたのか。今後も同じような事件が起きる可能性はないのか。そんな煩悶がまったくない。
自民党は、日本の憲法改正のための条件は諸外国に比較しても例外的に厳しすぎるとして、改憲の発議要件を国会議員の三分の二以上から過半数に緩和すべきであると主張する。でもここで例として挙げられたアメリカやフランス、イタリアやドイツが、過半数制を採用しているかといえば、それはまったく違う。
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