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『人文・思想』関連の引用(抜き書き)読書ノートリスト

引用(抜き書き)『人文・思想』関連の読書ノートリスト

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  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    (二酸化炭素中毒によって,後頭葉視覚野の広い範囲に損傷を受けた患者の知覚。認知機能に関する調査:「見えている」自覚がないが,行動で識別できる。) 1.この患者に線分を見せ,その方向の識別を求めると,言語報告によっても,または手で方向を示す動作によっても,まったくできなかった。垂直線を見せても,水平線を見せても,区別できないのだから,重篤な障害といわざるを得ない。ところが,患者の目の前に郵便箱か,あるいは自動販売機のコイン投入口のようなスロットを置き,そこにカードを差し込むように求めてみたところ,この患者はたちまち健常者とほとんど違わない成績を示した。 2.マッカロー効果:縞模様の方向に応じて違う色が見える特殊な色残効の効果。たとえば赤い横縞と緑の縦縞を交互にくりかえし見た後では,白黒の横縞部分は緑がかって,縦縞部分は赤みがかって見える効果。縞の方向は「見えていない」「識別できない」のに,それでも健常者と同じ色残効を報告できることから,縞模様の方向はある程度脳内で処理され,患者の知覚は間接的には反映されている。 「見えない」プライム刺激が,後の知覚情報処理に影響を与えている。それが何通りかの「間接的な」方法で示されている。知覚過程の測定可能な出力は複数あり,それぞれ異なる神経経路やメカニズムによる。したがって,それらの出力が食い違うことも珍しくない。さらに,そうした出力は意識レベルで「気づき」自覚できるものであったとしても,そこに至るまでの過程は自覚できない場合が多い。 「誤帰属」は知覚においてもあり得るのだろうか。自分の近くの根拠や原因を,ほんとうとは違う対象に「帰する」というようなことが起こりうるかどうか。 対象を知覚し,その距離を正確に判断する盲人の驚くべき能力。 1.高い周波数の反響音が手がかりになっている。 2.ほんとうは反響音を手がかりにしているのだが,その知覚過程は自覚できない。しかしその結果,「これ以上前に歩くと額が壁にぶつかるぞ」といった予期が生じ,額に緊張が走る。ところがこれは自覚できるので,自分の近くの原因をこの自覚でいる額の緊張に帰してしまう。 ソニック・ガイドあるいは超音波測定装置。 1.額の位置から超音波を発信し,対象からの反響音波を受信。それをさらに耳に聴こえる音に変調した上で視覚障害者に聞かせる。そして,たとえば対象までの距離は音の高低で,対象の大きさは音の大小で,対象のきめ(凹凸やざらつき)は音の透明度で,というふうに次元を決めて,外の世界や障害物についての手がかりを与える。 2.十分に早い時期からこうした装置を装着させた視覚障害児は,助けなしでも自由に遊び回れる程度にまで空間定位が可能になる。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    閾下知覚あるいは潜在知覚の証拠には三通りぐらいある。これらはいずれもまずプライム刺激にマスクをかけて見えにくくしている。そして閾下の「見えていない」条件のもとで,それでも後の知覚や行動に効果があることを,何らかの間接的な方法で示している。 1.間接プライミング効果によるもの。 2.プライミング-ストループ法によるもの。 3.選好,つまり好き嫌いの判断。見覚えはなくても,実際に見た経験のあるものは好きになるという効果。 クラツキーは意識を「オンラインのアウェアネス(気づき)」と定義。この意味の意識は「注意」とほぼ対応し,したがって「前注意過程」のほうは無意識的・無自覚的な情報処理過程ということになる。 クラツキーはまた,自動的な処理と注意による処理とを区別した。 1.自動的処理=無意識的処理:目的や課題,本人の意図や構えにかかわらず,刺激によって駆動され自動的に立ち上がってしまう処理過程。 2.注意による処理=意識的処理:本人の意図や構え,努力によって制御の効く処理過程。 注意には刺激依存性のものと自覚的で意図的なものと少なくとも二種類ある。意図的な注意は遅くてより持続的だが,なにか新しい刺激があると刺激依存性のすばやい機構が一瞬の間だけ打ち勝って,注意の焦点が一瞬の間だけそちらに移ってしまう。 「ポップアウト効果」:課題や努力に関係のない自動的な注意。 より重要そうな情報だけをさらなる処理のために残し,残りを捨てるフィルターの役割をするのが人間の注意。 より重要な情報だけをどうやってすばやく選択するのか,選択に必要な「前処理」の実態は何か。 私たちはとかく見えたか見えなかったか,知覚できたかできなかったかというふうに,オール・オア・ナッシングに捉えがちだが,実際にはそうではない。知覚とは,複数のレベルから成り立っている現象だと考えるべき。「見えた」あるいは「あった」という反応は,知覚の測定可能な出力が複数あるうちの,特別なひとつであるにすぎない。 外の現実世界についてのアウェアネスを伴う知覚は,何段階もある前意識的処理の,最終的な産物であるにすぎない。 「初期視知覚過程」=「前注意過程」の存在の証拠(特徴)。 1.刺激依存的。つまり刺激によって駆動される。 2.自動的・盲目的。この刺激による駆動は有無をいわせないもので,それが課題と関係がなくても,また本人の意図でなくても,さらに知識や予見にかかわらず,起こってしまう。 3.局所的で並列的。視野内のあらゆる狭い場所で,処理は同時並行的に進行する。 4.無意識的。その過程の結果は意識的に体験できても,そこに至るプロセスは自覚できない。 視知覚情報処理の大部分は,われわれの意識にとってアクセス不能であり,われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【第六講 見えないのに見えている】 無意識的知覚の証拠:「カクテルパーティ効果」。パーティで,人の輪に加わって談笑している。その話題に熱中していても,背後の別のグループの会話の中に,たとえば自分の名前が出てきたりすると,突然それが聞こえ,そちらの会話に注意が向いてしまう。はじめ自分のグループの会話だけに集中していて,周囲の会話はまったく意識されていなかったのに。 「前注意過程」=自覚化されないがある程度の処理をおこなっている「前処理」過程を想定。自覚化され意識されている現在の会話の背後で,この無自覚的過程がひそかに働いていて,自分の名前のような極度に重要な情報が入った場合だけ,信号を送って意識のチャンネルを切り替える。 視覚のほうでも,これとよく似た前注意過程の存在が推定されている。 注意の二過程説:前注意過程=無自覚的過程。注意過程=自覚的過程。 単語などの認知情報処理には二種類の過程がある。 1.無意識的な認知過程。自動的で無意識的ですばやく,意図による抑制の効かない活性化のプロセス。 2.意識的な認知過程。意識的で意図による抑制が効くが,遅くて処理容量に限界があるプロセス。 このような二過程説ときわめてよく似た二過程説が,単語の意味のような言語的プロセスだけではなくて,より広く知覚一般に成り立つ。これは脳神経の情報処理のある一般的な構造を反映するとともに,自覚できるメンタル・プロセスと無自覚的なメンタル・プロセスの関係についても,重要な一般的な原理を示している。 1970年代に現れたふたつの有力な方法論によって,潜在知覚研究の別の波がやってくる。 1.逆行性マスキング:ターゲットを瞬間呈示した直後にマスキングと呼ばれる別の強い刺激を呈示して,ターゲットを見えなくする方法。 2.意味的(間接)プライミング:意味的に関連のあるプライミング語をあらかじめ呈示しておくことによって,それに続くターゲット後に対する認知・判断が促進される。 視知覚機能には大きく分けてふたつある。 1.検出と定位に関する機能(別の解釈では行動に直結する機能)。 2.対象の特徴と分析と認知に関する機能。 このふたつは脳内の視覚神経経路としてある程度独立のものであり,並列的に働いている可能性がある。さらに,検出・定位機能にかかわるのは皮質下の経路で,自覚なしにも働きうる。 (チーズマンとメリクルの実験。「意識を伴わない知覚情報処理も,より敏感なプライミング効果には反映される」というマーセルやバロッタたちの結論を否定。)ほとんど見えた気がしない場合ですら,無理やりあて推量で「あったかなかったか」どちらかを選べば,90パーセント近く正答できた。 「あったかなかったか」の検出課題のほうが,形態や意味の類似性判断よりも実は難しく,あるいは判断があてにならない。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【第五講 忘れたが覚えている】 潜在的な記憶:被験者はある課題を遂行することによって,特定の知識を持っていることを示せる。がしかし,その知識を持っていることに自ら(意識的に)気づくことはなく,またその知識に意図的・自覚的にアクセスすることもできない。 エビングハウスは被験者に無意味つづりの単なるリストを暗記させた。また別の実験では対連合学習をさせている。ひとつのつづりと別のつづりとの対応関係を覚える,つまり単語帳の暗記に似た学習だ。その後,彼は三通りの異なった方法で記憶の存在を示した。 1.再生:単純にリストの中にあったつづりを自由に想起できること。 2.再認:自発的には思い出せないが,目の前に示されたり,読み上げられたりすれば,リストの中にあったと判断できる場合。 3.節約法:再生も再認もできないつづりであっても,忘却の後にもういちど学習させると,はじめてのときよりも早く基準に達する,つまり学習の効率が良い。 忘却したと思っても,また事実再生・再認ができなくても,完全に忘却したわけではない。 潜在的な記憶過程が顕在的な記憶過程の根元に存在している。 健忘症:脳損傷に由来する記憶障害の総称。 1.順行性健忘:患者は新しい材料や出来事を記憶できない。ひどい場合には,障害が生じた時点(たとえば脳に出血が生じた時点)から死ぬまで一切の事件を記憶できない。 2.逆行性健忘:障害が生じた時点より以前の出来事を想起できなくなる。しかも,古い事件は比較的よく想起できるのに,新しい事件ほど想起が困難。 記憶についての「多元システム」説:障害を受けやすい記憶と受けにくい記憶がある。 宣言記憶:事柄の知識。意識的な想起が可能な記憶。内容について述べることができる。主に学習によって獲得された事実やデータに関する記憶で,健忘症では強い障害を示す。 手続記憶:やり方の知識のようなもので,特定の事実やデータ,特定の時間に特定の場所で生じた出来事とは関係がなく,学習された技能や認知的操作の変容に関わる記憶。健忘症でも傷害されずに残る。 健忘症でも損なわれない記憶には,少し違う種類もあって,プライミング(呼び水)効果という。いちどでもちらりと見たものは二度目には見やすくなる,あるいは反応が早まったり強まったりするといった効果。 プライミングを使うと,健常者でも潜在記憶の証拠が出てくることがある。再生や再認のまったくダメな健忘症の患者でも,プライミングでは優秀な成績を示す。 さまざまな手続記憶で共通しているのは,これらの技能の獲得時期が,逆行性健忘の期間内であっても――つまり発症直前であっても――失われずに残ること。 宣言的記憶と手続的記憶は,①貯蔵される情報の種類,②情報の用いられ方,③関与する神経組織の三つの点で違っている。 ダルウィンによれば「エピソード記憶」は損なわれるが,「意味記憶」(の一部)は損なわれない。 エピソード記憶とは,個人的体験のいわば日記的・自伝的な記憶のことで,日時と場所つきで明確に想起可能なエピソードの記憶表象。 意味記憶とは,世間一般でいう知識――事実や概念。 意味記憶は保存されるが,エピソード記憶が損なわれた例。 1.チェスのルールはちゃんと覚えていて言えるのに,どこで習い覚えたかさっぱり記憶にない。 2.ある会社や業界用語などについて詳しく知っているのだが,それは自分がかつてその会社にいたからだということが分からない。 エピソード記憶も意味記憶もともに顕在的であり,宣言的記憶のサブシステムと見られている。(続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【第四講 否認する患者たち】 盲視覚:ある種の脳損傷者に見られる,特殊な視覚機能のこと。神経学的障害によって視野内の一部の領域に欠損があって,その領域では光点を呈示されても検出できない。この見えない領域内に刺激が呈示されると,知覚しているという当人の自覚がないにもかかわらず,(なんらかの仕方で)反応できる。 円の半分を盲視野に,残りの半分を健常視野に呈示すると,患者はしばしば完結した円が見えたと報告する。しかしむろん,盲視野に半円を呈示しただけでは自覚的には何も見えず,どんな形態も報告できない。さらに,健常視野だけに半円を呈示すると,半円を報告できるのみだった。円の完結が認知的な推論や判断の結果ではなくて,残存視覚の結果であること,つまり何らかの意味で「本当に見えている」ことがわかる。 半側無視:片半球大脳皮質の損傷によって,反対側視野に与えられた刺激に対して注意をはらう能力が損なわれることがあり,「半側無視」と呼ばれる。あたかも刺激が存在しないかのように,そちら側の刺激を無視し続ける。 (片側無視は)盲視覚と紛らわしいが,ひとつだけ根本的に違う点がある。それは視野計による検査で視野欠損が認められないという点。つまり単独で光点を呈示すると「見えた」と報告できる(盲視野の患者では「みえない」)のに,複雑な図柄を呈示すると,その片側半分を無視してしまう。 片側無視は,視覚レベルの障害ではなく,より高次の認知障害であると考えられる。 半側無視のケースでは普通,与えられた視覚的対象のうちの片側(多くの場合左)半分が無視されるが,その無視の程度は,はたで見ていて信じられないほどにドラマティックなもの。たとえば一枚の紙を与えて絵を描かせると,紙の中心線から右側だけに描くが,紙の幅を変えると,この境界線もそれに伴って動くことがある。つまり,常に与えられた幅の半分を無視するのだ。 対象の幅と対称性とが,無視される領域の範囲を決定する要因であることがわかっている。 (半側無視の空間症状には奇妙なパラドクスがある)。対象の左側が,はじめからまったく無視されており,患者はその存在にすら気づかない。すると患者は(患者の視覚認知系は)いったいどのようにして,注意をはらう範囲と無視する範囲の境目を決めたのか。 紙の幅を変えたり対象の幅や数を変えるだけで,この境界線もしばしば横方向に変化する。このことは明らかに,患者が少なくともあるレベルでは,対象全体を認知していることを示しているといえないだろうか。 半側無視における注意の範囲の変化ということの事実自体,自覚的な注意過程に先だつ,無自覚的な視覚情報処理過程の存在を示している。 病識欠損:半側無視の患者は自らの病状を自覚せず,その存在を否定することがある。 相貌失認と呼ばれる顔の認知だけに限定された障害がある。よく見知っているはずの顔を認知できなくなる障害だ。なじみ深いはずの顔をまったく再任できず,「なじみ深い」印象を持つことができない。 相貌失認の患者が,自ら自覚的には再認できない顔についても潜在的な知識を持っていることがわかってきた。 相貌失認患者でも,なじみ深い顔について健常者と基本的には同じ情報を持っている。ただその情報が完全に無自覚であるという点で,健常者と違う。 失読症:単語や文を読んで理解する能力の障害の総称。そのような患者でも,単語に関する無自覚的知識を持っていることを示す研究例がある。 失書(文章を書くことに関連した機能の障害)を伴わない失読の症例。このような患者はしばしば単語を全体として認知する能力を失い,読むことができないし,単語の意味も当然理解できない。ところが事物の名前を瞬間的に呈示し,その呈示時間が短すぎて一文字ずつ順に読むことが不能であるような場合でさえ,患者は配列されたたくさんの物体の中から「直観的に」正しいものを選ぶことができた。 失語症:ブローカ失語(運動性失語)とウェルニッケ失語(感覚性失語)が代表的。ブローカ失語は聞き取りはできるがしゃべれない,ウェルニッケ失語はしゃべれるが聞き取れない失語。ただしブローカ失語がしゃべりという運動そのものの障害というよりも統語論的な,つまり情報の処理の障害であること,またウェルニッケ失語も聞き取りの感覚的な障害というよりは意味論的な情報の処理の障害が主症状であることが,現在では定説となっている。 しかし最近になって,ブローカ失語における統語論的な能力,ウェルニッケ失語における意味論的な能力は,それぞれ従来考えられていたよりもはるかによく保存されていることがわかってきた。ただこれらの患者では,統語論的・意味論的情報が(患者自身によって)自覚化されないだけ。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【第三講 もうひとりの私】 「二十の扉」ゲーム:出題者があらかじめ思い定めた事物の名を,二十までの質問に対する「イエス/ノー」の答えが推定できるゲーム。平均二十個の質問によって,大体一個の事物が特定できる。 右眼が左半球に,左眼が右半球に投射するのではなくて,右視野が左半球に,左視野が右半球に投射する。 「分離脳」 言語に関連する機能は,大多数(90パーセント以上)の人々では左半球に集中していることが知られている。 分離脳の患者の右視野に事物の絵や単語を呈示したり,あるいは右手で対象に触らせたりして,左半球だけに情報を入力してあげると,左半球はその刺激を極めて雄弁に記述できる。 これに対して,情報の入力が左手を通して右半球だけに限定されている場合には,患者はそのような反応を示すことができない。 いわゆる言語中枢を持たないはずの右半球系が,単語を「読み」,「理解し」,その対象を同定できたことは,それ自体驚くべき発見だった。 右半球系は視覚情報に基づいて触覚的同定課題を遂行することができるが,その課題遂行を自覚的にモニターし,言語報告することができない。他方左半球系はその(左手の)ふるまいを見て,何が起こっているかを推測する。 右半球の高度に知的なふるまいを左半球は直接知ることはできず,絶えず推測しつつ,しかし推測しているということには気づかずに,事実として認知し記述しているらしい。 左半球の言語系は,右半球の認知系による行動を「外的に」観察し,その知識に基づいて現実を解釈するらしい。 人の心とは,完全には統合されていない多元的なシステム。つまり,心とはひとつの心理学的実態ではなくて,いくつかのサブシステムからなる社会学的な実態。 人は自分の気分(ムード)の起源をつねに正確に自覚しているとはかぎらない。 言語システムは,当人の実際の行動・認知・内的興奮やムードなどを常時観察し,モニターしている。そして,とぼしい内的手がかりをおぎなうために,ニスベットとウィルソンのいう「暗黙の因果理論」に基づいて,解釈をほどこす。 他人の行動と周囲の環境とを観察して,その当人の心の中身を推察するという作業を,私たちはそれと気づかずに常時おこないながら暮らしている。左半球言語系と右半球との関係も,どうやらそれに近い。 両半球はふたりの隣人のようにふるまう。 分離脳の知見は,健常者の心的過程について,ふたつの点を示唆する。 1.健常者の量半球間でも,内側の神経コミュニケーションのほかに,自らの行動を通して外的コミュニケーションがおこなわれている可能性がある。 2.左右両半球という分け方以外にもこうした「多元的メンタル・システム」の区分があって,そのうちの少なくともひとつが無自覚的・潜在的であり,自覚的・顕在的システムとの間で,ゆるい観察的・外的コミュニケーションしか持たないという可能性がある。 人は,自分の認知過程について,自分の行動から無自覚的に推測する存在である。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【第二講 悲しいのはどうしてか?】 自己に対する内的な知識はきわめて不完全である。それは無意識的な推論によって補われているものであり,極言すれば自分とはもうひとりの他人であるにすぎない。 情動二要因理論。 私たちは悲しいからなくのか,泣くから悲しいのか。 ジェームズ-ランゲ説:泣くから悲しいのだと主張する立場。「情動の末梢説」。 教示や演技など別の理由で表情を作った場合ですら,主観的に経験される情動は,予想外に大きく作られた方向に引きずられる。 情動経験は感覚刺激に依存する。しかしまた顔筋の変化=表情と情動経験の間には連合-相関関係があり,この関係は表情の変化が教示や演技による場合にも変わらない。つまり感覚刺激なしに教示や演技によって表情を作った場合ですら,このような強い連合関係のために,情動の経験が想い起こされてしまう。 ジェームズ主義では,表情を作ることがむしろ先立ち,それによって逆に主観的経験としての情動が形成されるという筋道。 との説も,日常感覚的には承認しがたい時間的生起順序・因果関係している。つまりこれらの説では,身体の生理的変化が先で,次にこれが原因で情動が生じるというのだ。しかし私たちの日常的経験は,これとは逆のように思える。 時間的生起順序・因果関係を承認しにくいのは,これらの理論が,本人も自覚的にアクセスできない意識化の過程の存在を示唆しているから。「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」という関係が重要。 情動二要因理論の大前提=情動による生理的喚起=興奮状態は,情動の種類(喜び,怒り,悲しみなど)にかかわらず共通である。 情動二要因理論では,情動経験について二段階のシナリオを考える。このふたつが満たされてはじめて情動認知が成立する。 1. 生理的な喚起(興奮)状態の認知。 2. 情動ラベルづけ(喚起状態の推定,あるいは原因への帰属)。 人は自分の主観的な情動の経験を「決定する」ために,①自分の内的状態と,②その状態が生じている環境とを評価する。 つり橋に対する恐怖からの緊張と性的興奮との間には,生理的には曖昧な区別しかない。そこで状況の認知(美人に声をかけられた)から,興奮状態を作り出した原因を「謝って」そこ(魅力的な異性との出会い)に帰してしまう。この帰すること=帰属によって,性的興奮度や,初めて出会った異性に対する関心の度合いがいっそう高まったものと想像される。 実際の生理的興奮が起こっていなくても,「自分は今生理的に興奮している」という認知さえあれば,常道のラベルづけをおこない,情動認知が起こりうる。生理的興奮そのものが情動経験のための必要条件なのではなく,生理的興奮の自己認知が必要条件。 興奮条件ではむしろよく眠れたのに,リラックス条件ではなかなか眠りにつけない。 就寝時に強く自覚される生理的興奮を100パーセント薬のせいにできる。そのため生理的興奮の情動へのラベルづけが起こりにくく,情動認知が低くなる結果,不眠症状が軽くなるのではないかと考えられる。これに対してリラックス条件では,「鎮静剤を飲んだのに」依然として興奮を自覚するので,それをいつもより高く推測し,ふだんより強い情動認知をする。その結果,不眠はむしろひどくなってしまう。 本人が自覚できず,したがって申し立てることもできないが,行動には反映されているような,無意識的な認知過程。そういうプロセスの存在を示している。 情動二要因論の骨子: 1.生理的興奮そのものは情動の種類に関わらず,案外類似している。 2.感情のように一見生理学的要因に直結しているように見えるものでさえ,案外無意識的な認知過程(たとえばラベルづけ)の結果である一面が大きい。 3.行動に顕れる無自覚の認知過程と,言語報告に現れる無意識的な過程とは別物である可能性がある。人は自分の気持ち・行動のほんとうの理由を案外知らない。そこではたらく過程は非生理的できわめて認知的でありながら,それでいて意識的・自覚的ではない。意識的過程は結局,意識的過程をしか(直接的には)知り得ない。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
    【序 私の中の見知らぬ私】 人は自分で思っているほど,自分の心の動きをわかってはいない。 自分でも気づかない無意識的な心のはたらきに強く依存している。 「潜在的な認知過程」にもっとも近いのは「暗黙知」という概念。 記憶障害の神経心理学では,本人の自覚を伴う顕在記憶と,自覚のない潜在記憶とをしばしば区別する。 潜在記憶システムと顕在記憶システムとは異なる神経機構を持つ。 本人の自覚がないにもかかわらず,刺激が知覚や行動に明確な影響を与えている。そうした無自覚的な心のはたらきを「潜在的な認知過程」と名づける。 人の心が顕在的・明証的・自覚的・意識的な過程だけではなく,潜在的・暗黙的・無意識的な過程にも強く依存している。 暗黙知がつねに先立ち,明証的な知の基礎となっている。 暗黙知と明証的な知は互いに密接に作用しあっていて,それが人間の心のはたらきを人間独自のものにしている。 【第一講 自分はもうひとりの他人である】 そもそも自己知覚には二種類の手がかりがある。ひとつは内的な自分だけの手がかり,もうひとつは外的な公共の手がかり。 認知的不協和理論:個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき,認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。そこで当然,それを解消または提言しようとする動機づけが生じる。しかし多くの場合,外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので,結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる。 認知的不協和の低減というこのような考え方自体,本人のあずかり知らぬ無意識的な理由付け・合理化過程の存在を示している。 自己知覚理論:自分の態度や感情を推測する過程と,他人の態度や感情を推測する過程とは,本質的に同じである。本人にしかわからない私的な刺激に左右されると思われている自己記述も,実は他者が知ることのできる顕在的・公共的な事象に起源を発している。 自分はもうひとりの他人であるかもしれない。 自己知覚と他者知覚との間の,無意識的な推論過程としての類似性。 (続きを読む
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    masudakotaroさん
    masudakotaro さん(2013/08/10 作成)
  • このムダな努力をやめなさい: 「偽善者」になるな、「偽悪者」になれ
    努力には「時間」がかかる。時間がかかるということは「お金」や「努力」もかかるのだ。そういった「コスト意識」がないと、ムダな努力を重ねてしまうことになる。だから努力も「選別」する必要がある。 -- 今の日本は、いうまでもなく「善人になりたがる人」ばかりだ。みな自分が正しいと思い込んでいるから、些細なことで互いに責め合い、ギスギスしている。たとえば、電車やバスの中での携帯電話。ところ構わず大声でおしゃべりをしているおばちゃん連中は許され、なぜ小声で話す携帯電話は許されないのかと不思議に思ってしまう。外国では電車の中でも平気で携帯電話で話をしている。目くじらを立てているのは日本だけだ。優先席付近では電源を切るべきだといわれているが、今時のペースメーカーは隣にいる人が携帯で話しているくらいで壊れたりはしない。それで壊れるくらいなら、怖くて街は歩けない。 -- これからは「場当たり的に生きる」のをおすすめする。その場その場で判断を変えてもよし、今日できることを明日に持ち越してもよし。自分に課題を課さず、締め切りも設けない。もっとゆるく生きればいいのだ。 -- 一流の人間とそうでない人間の違いは、何を努力すればいいのかがわかっているか否か、という点につきる。やみくもに努力をするのは二流の人間だ。一流の人間は、最短で目的を達する方法を理解し、そのための努力は惜しまない。 -- まわりの目など気にせずに、自分の好きなことをやればいい。引きこもりが好きならずっと引きこもっていてもまったく問題はない。普通なら家にずっと閉じこもっていることには耐えられないのだから、引きこもれるのも一種の才能だ。ブッダも仕事などせずに菩提樹の下でひたすら瞑想していたから悟りを開いたのであり、一種の引きこもりのようなものである。ビジネスマンは、下手な精神論に流されずに、楽しんでできる仕事を見つけ、人からなんと言われようと、その仕事をしていればいい。 -- 成功者は、極端な人になると、失敗など忘れて成功だけを鮮明に記憶している。この「忘れる力」が、ポジティブな決断力を支えている。過去の失敗体験に加えて、世間体や扶養家族、親の介護や自分の老後などさまざまなしがらみの中で、自由な決断はなかなかできない。そこをあえて踏み切って、大きく飛べた人は大きな果実を手に入れられる。決断した結果、失敗に終わったとしても、恥じることなどない。恥ずかしいのは、決断できずに何も行動しないまま終わることだ。(続きを読む
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    mikiさん
    miki さん(2013/06/10 作成)
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