安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖さきの見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟を呼びかけた。「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あさまとご一しょに岩代を出てから、わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏かみほとけのお導きで、よい人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りになったお父うさまのお身の上も知れよう。佐渡へお母あさまのお迎えに往くことも出来よう。籠や鎌は棄てておいて、子かれいけだけ持って往くのだよ」
厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬ほおを伝って流れて来た。「そして、姉えさん、あなたはどうしようというのです」
「わたしのことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりでしておくれ。お父うさまにもお目にかかり、お母あさまをも島からお連れ申した上で、わたしをたすけに来ておくれ」
「でもわたしがいなくなったら、あなたをひどい目に逢わせましょう」厨子王が心には烙印やきいんをせられた、恐ろしい夢が浮ぶ。
「それはいじめるかも知れないがね、わたしは我慢して見せます。金で買った婢はしためをあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさん苅ります。六荷までは苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」こう言って安寿は先に立って降りて行く。
厨子王はなんとも思い定めかねて、ぼんやりしてついて降りる。姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、その上物に憑つかれたように、聡さとく賢さかしくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。「これは大事なお守だが、こんど逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、大事に持っていておくれ」
「でも姉えさんにお守がなくては」
「いいえ。わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、きっと討手うってがかかります。お前がいくら急いでも、あたり前に逃げて行っては、追いつかれるにきまっています。さっき見た川の上手かみてを和江わえという所まで往って、首尾よく人に見つけられずに、向う河岸へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていたお寺にはいって隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手が帰って来たあとで、寺を逃げておいで」
「でもお寺の坊さんが隠しておいてくれるでしょうか」
「さあ、それが運験うんだめしだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。姉えさんのきょうおっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。わたしは考えをきめました。なんでも姉えさんのおっしゃる通りにします」
「おう、よく聴いておくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」(
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