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時代によっていじめの被害者像、加害者像も変化しているわけですが、しかしこれらのいじめ行為に共通して見ることができる心理が、「他人を下に見たい」という欲求なのでしょう。自分がどんな立場にいようと、他人をどうにかして下に見ることによって、自らの精神の安寧を得ようとする人が、我が国にはやたらと多いのではないか。
もちろん私も、その一人であるわけです。幼稚園に入って、集団で行動することが始まった瞬間に、お弁当を食べる速度、お遊戯の上手下手、先生からの寵愛具合……と、様々な点で優劣をつけられるようになった。その時に、「上」でいることの快感と「下」になることへの恐怖は、既に植え付けられていたのです。
小学校、中学校と進むうちに、上と下を分ける物差しは、どんどん増加していきます。勉強やスポーツのみならず、容姿、異性からのモテ具合等、あらゆる場面で、自分は上なのか下なのかを意識せざるを得なくなってくる。
それは大人になってからも同じなのであり、「『下』になりたくない」「『上』でありたい」という欲求によって動くことの、何と多いことか。その欲求を満たすには、努力して上に行くことが一番であるわけですが、努力の苦しさにふとため息をついた時、脇で目につくのは、「他人を下に見る」という、甘い誘惑。その欲求に応じる時の快感はまた、癖になるものであり……。
「下に見たい」という欲求。それは、日本にとっての大きな病巣でありつつ、同時に小国日本をここまでの経済大国にした原動力の一つのような気もするのです。考えてみれば私も、今までの人生の様々な局面において、他者を下に見ることによって、安心したり自信を持ったりしてきました。「下に見る」側は自分の行為をすぐ忘れてしまうけれど、その時の行為と心理をこれから少しずつ思い出しつつ、「なぜ私は、そうしてしまうか」ということを、考えてみたいと思います。(
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